ちゃらんぽらんたん日記

社会 society に興味があります。

時代だから、に対する疑問

社会の趨勢は断続的に変遷していく。

社会が変わっていく中で、それに対する理解を示す意味で「時代だから」と開陳する人がいる。社会の変化に対応するためなのは理解できるが、この「時代だから」という理解は、些か詭弁であると言わざるを得ない。

なぜなのかというと、「時代だから」という理解は「なぜ変わっていかなければならないのか」を理解していないからだ。これは、例えば子供に「なんで〇〇をしちゃいきないの?」と質問された際に「それが常識だから」と返答するのと同じ思考回路なわけで、こういった思考回路はたらればとして時代がファシズムを志向しだしたら「時代だから」とロジカルに容認できてしまう。

時代や常識を理由として持ち出すのは、本質的な理由を見出せていない証左であるのか、乃至は変わる時代の趨勢に疑問を持ちつつも牽強付会に自分を納得させるための弁疏なのか、は分からない。

時代は良くも悪くも変わっていく。変わっていく流れに乗るのか、逆らうのか。「時代だから」と漠然とした精神で乗るのではなく、本当にこの流れは正しい方向に向かっているのだろうか、と一考することも肝要なのかなとも思う。

 

 

 

 

嫌われないように生きる人生は幸せなのか

 

幼少期から他人の評価を酷く気にかけた。

他人の目が気になるあまり、萎縮して動きが小さくなる。誰かが自分の悪口を言っているのではないか、誰かに嫌われていないか、と常に考えてしまう。

それもあり、学校に疲れて中学校では不登校に、大学生の時は鬱病にもなった。

鬱病が契機となり、そこから自分の人生を見つめ直し、自問自答をした結果、もう既に誰かに嫌われている、という答えで落ち着いた。

嫌われていることを前提とすれば、嫌われないように迎合する必要もない。そう考えた瞬間から、荒廃していた心は静謐を迎えた。

リースマンは、他人指向型、内部指向型、伝統指向型で社会的性格を類型化した。過去の自分は他人指向型で、今の自分は内部指向型だ。

たった一度だけのちっぽけなこの人生、せっかくなら他人がどうこうではなく、自分の意志に愚直なまでに従順でありたい。そうやって生きていれば、いつ死んでも幸せだ。

 

 

 

 

 

 

 

別に不倫は悪ではない

不倫は文字通りタブー視されている。世俗は他人の不倫問題を好むから、芸能人が不倫スキャンダルで社会的サンクションの対象となることが屡々ある。だがそもそも、不倫することは別に悪いことだとは思わない。良いとも思わないが。

本来、不倫は各家庭の内輪問題で、他人に何らかの実害を与えている訳ではないのだから、いちいちレスポンスする必要はないのだけれども、他人の問題にやたらと干渉したがるのは国民性なのだろうか。

現在、結婚の形態は、バージェスの概念を拝借すると、制度的家族ではなく友愛的家族へと帰着する過程のものとして認識されている。これはつまり、家族形成の性質が制度的結合ではなく情動的結合であるということで、多くの人たちは、結婚相手を「家」ではなく自分の「意思」を基準に決める。

不倫も同様に、「意思」を基準にしている。同じ「意思」でも既婚者か未婚者の立ち位置によって社会の賛否が分かれている。

結婚する前の恋愛は容認されるが、結婚後の恋愛は否定されるのが今の社会。これは、結婚前の恋愛感情が「友愛的」側面が強いのに対して、結婚後の他者への恋愛感情は「制度的」(倫理道徳慣習の柵に囚われている)側面が強く、同じ恋愛感情でも是非があるという点においてある意味逆説的のような気がしてしまう。

そもそも、結婚後に抱いた他者への恋愛感情を、倫理道徳慣習で抑制しようとするのは到底無理な話である。

日本では、離婚することはバツイチなどと形容されるようにスティグマとなっており、換言すると失敗として捉えられている。だけれども、別に離婚は失敗ではないし、寧ろ自らの気持ちを解放するという意味で、倫理道徳慣習という制度で抑圧するよりも、より有意義かつ自由な人生を送ることができるような気がする。

結婚は永遠不変のものではなく、暫定的なものでしかない。

好きな人ができたのならその感情を抑制する必要はないし、それは付き合っていようと結婚していようと変わらない。

念頭に置くべきなのは、その場の感情ありきの後悔するような決断をしないよう留意しておくこと。

不倫は相手方を傷付ける行為であるからご法度だ、という主張は主流だけれども、相互の心情を痛みあうことができる関係であれば、不倫は恐らくしないわけで、不倫をするということはそういう関係が構築されていない、乃至は瓦解しているということを暗示しているのだから、制度で縛り付けて窮屈な生活を送るよりも、いっそのことそれらの柵を取っ払って、ダメだったらまた別な人を探す、みたいな純粋な関係性を求めていくほうがより幸福感を得られるのではないかと思うのは私だけだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

人はみんな偽善者だ。きっと。

人間は本質的に利己的だと思っている。

一見利他的に見えるような行為であっても、それは意識的、無意識的に関わらずおためごかしでしかない。

例えば、
・被災地や社会的弱者を支援するためのボランティア活動
・吹雪の中、親が子供に覆いかぶり命を賭して子供を守る

というのは、利他的行動ではあるが、その利他的行動の背景には利己的な精神が存在している。利他的行動をとる人々の目的は、上記の例を参考にするならば、ボランティア活動や子供を守るということではなく、誰かの役に立ちたいという気持ちであったり、子供を失いたくないという自分の欲求を充足させることなのだと思う。理性であれ感情であれ、それに依拠して自分のために人は行動する。

ボランティア活動をする人を、偽善者だと痛罵し、揶揄し、嘲笑する人がいるけれど、前述の論理を援用すれば、全ての人々が皆偽善者になる。

だから、仮に私達が偽善者であるならば、その偽善者が、社会の相互補助の一助になっていることは確かなので、偽善者万々歳!偽善者最高!というような認識を持ちつつ、偽善者だと批判する人々自身も偽善者なんですよ、なんていう皮肉を開陳して結びとします。

 

 

トーホウリゾートのCMに対する違和感

トーホウリゾートは北海道札幌市に本社を構える、ホテル業を営む企業だ。

同社のCM(おそらく北海道だけのローカルCM)は、漢字をベースに意匠工夫を凝らしたCMで、以前から面白いというか好感を持っていた。

だが、最近放送されている新CMは、些か好感を持てないものであった。当該CMの内容は何かというと、漢字は「夫」をベースとして、ナレーションは「夫の役目は稼ぐだけでなく、妻を幸せにすること」。

「妻を幸せにすること」は百歩譲るのはともかく、この「夫の役目はお金を稼ぐ」というナレーションの言葉を裏返せば「妻の役目は家事をすること」であり、つまるところ、夫は外で働き、妻は内で家事や子育てに従事するという、ジェンダーロール的価値観が丸出しという点で、女性の働き方改革が推進される昨今の時代の趨勢とは逆行する、時代錯誤感むき出しのCMだということがよく分かる。

剰え、このCMがさほど問題視されることもないという点で、日本ではまだこうしたジェンダーロール的価値観が当然であり、普通であり、疑う余地のない常識であるということも分かる。

あらためて、一度社会的文化的に浸透し、アイデンティティとして組み込まれた価値観を変えていくのは大変難儀で、鵬程万里だな、と思う。価値観には、自覚的且つ懐疑的でありたいものだ。

懐疑を懐疑しない

正しさは所有できると勘違いする事がないよう、懐疑を懐疑しない姿勢が必要だ。

 

マンハイムは存在被拘束性(思想や知識は文化的社会的諸条件によって拘束されているというもの)の概念を提唱した。これはある意味、社会的本質は相対主義であることを示唆するものであるが、浮遊するインテリゲンチャという概念を提案することで真理を導出しようとした。

 

正しさや真理が存在しないわけではない。

 

人には、各々が信じているものがある。そこに正しさや真理が存在するが、それはあくまでも個人の外に飛び出るような外在的なものではなく、断続的に内在し続けるものに過ぎない。 

 

即ち、正しさや真理に「普遍性」という性質は具備されていない。「普遍性」を説いた瞬間に、恐らくそれは「暴力」への架け橋になってしまう。

 

正しさや真理の「普遍性」を人々に説伏しないためには、オルテガの言葉を拝借すると、懐疑を懐疑しない、という姿勢が必要だ。

 

疑うという行為は認知負荷がかかるものだし、疲れる。が、正しさや真理に溺れないためには、避けて通れない不可避的行為なのだと思う。

経済合理主義が行き着く先

LGBTは「生産性」がない、との論文を寄稿した某衆議院議員は、LGBTに関して、「税金を投入する必要ない」趣旨の発言をした。

 

相模原障害者施設殺傷事件の加害者は、障害者に関して、「税金の無駄」と開陳していたらしい。

 

これらの主張は、彼らにとっての経済合理性を追求した結論のものだろう。

 

「感情」と「論理」。トランプ大統領の誕生や英国のBrexitという結果は、大衆の感情化が一因とも言われている。感情が導く誤謬を危惧するあまり、論理ばかりを重んじる人がいるのかもしれないけれども、論理一辺倒は換言すれば経済合理主義でもある。

 

畢竟、要諦は「バランス(均衡)」だと思う。感情が暴走しないように論理が監視する。

論理を振りかざさないように感情が監視する。

論理と感情による「相互監視」を自分の精神に組み込むことが、大切なのかも知れない。